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音楽評論

週末を挟んでの記事UPだったので、私の見解(しかも、全くまとまりがない^^;)が遅れましたこと、お詫びしておきますね。
ユルシュールさん、トラックバックありがとうございました。

keyakiさんの『勇気を振り絞って』コアなオペラファンが集まっている某BBSへの投稿も目にしました。
いくつかの反応(私は概ね、好意的な反応だったと理解していますが、如何でしょう?)があったようですね。

今回の議論の発端は、あるモノガキさんの『誠意の足りない』一文に起因してのことですが、残念ながらこういった文章を好んで読みたがる、またはありがたがる読者も少なからずいる・・ということは、否定できないと思います。
これは読み手(=受け手)の資質にもよるでしょうし、こうした読者が減らない限りは、また同じようなことが繰り返される可能性も否定できないでしょう。

音○の友社の『お客様からの声は、メール、お手紙は一切受けつけず、電話のみの対応』に関してですが、これはもしかしたら、『何かあった時に、文字で残しておくと証拠が残ってしまって、不都合なことがある・・』ということに起因しているのかもしれませんね。

こういった対応を取る業種というのは、大きな声では言えませんが、残念ながら時々メーカー勤務の方などからも伺います。
しかし出版業の場合は、お客様からの声を受ける・・ということを抜きにしては、本来成り立たないと思います。でも「それが現実」なんですよねーー;残念ながら。

また、ユルシュールさんがご指摘なさっている
>評論家自身の嗜好を前面に押し出し、また人によっては、自分の好みに合わない演奏を切り捨てるような風潮があるように感じます
点については、本来、プロのモノガキさんが、個人的感情に左右されるべきではないというのが理想ですが・・現実には人間ですから、そうもいかないのが実情ですねーー;

>現在「音楽評論家」と言える書き手はほとんど存在しないように思います。

これは前から不思議に思っていたことですが、例えば『文芸評論』に比べると、音楽評論というのは、とても曖昧で、実はあんまり、面白い・・と思ったことがないんですよね(^^ゞ
文学評論では鋭い批評で関心することの多い方の書いた音楽評論ですら、そう思えることがあるのです・・;
(これは、私よりも遥かに物知りで、遥かに読書家&クラシック音楽好きである、我が夫もそう主張しています)

文学は、世に送り出した時点で既に完成しており、他者が手を入れることが出来ませんが、音楽の場合(ここではクラシックに限定します)は殆どが、作曲者の手を離れて、個々の演奏家の解釈にて表現される・・という点が、『音楽評論』を曖昧にしているのでは?とも思っています。
(でもこれは、答えがとても難しいですし、多分永遠の謎かも(笑))

解釈は千差万別ですから、色んな演奏家の手によって演奏され、そして聴き手は、自分が感じていることに近しい解釈の演奏家に心を奪われる・・という感じでしょうか?

平たく言ってしまえば「最終的には好みの問題」でしょうから、解釈が違う演奏家の人格若しくは行動そのものを否定する・・ということに繋がっているのかな?とも思ったり・・
(それはとても、問題のあること!なんですけどねーー;ああ・・堂々巡りの私の文章(^^ゞ)

今回の件で、何となく思い出したようにざーっと読んだ『君の微笑み』(詳しくは本日の更新『何読んだ?!』をご覧下さいませ!)の中で、面白い文があったので、ご紹介しておきますね。

『芸術家であるからには、まず人間でなければならないから、どんな芸術かも完璧であると考えることはできない。おのおのの芸術家の欠点や不完全なところを見分けるのは、たしかに批評家の仕事の一つであり、それはとりわけその欠点を直すことを奨励するためでもあるのだが、それだけが仕事であるはずはない。もしあら探しだけが仕事だとするなら、二つのケースしか考えられない。批評の対象となる人物が、あらゆる面で欠点だらけで職業を間違えたに違いないのか、批評家が、冷静でも有能でもないか、である。』

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オペラ」カテゴリの記事

コメント

音楽関係書籍はずいぶんとたくさん読みましたが、非常に癖のある文章が多いですね。かなり移ってしまったという自覚さえあります^^;

オペラ関連は殊に安直というか、単なる感想にすぎないものが多いと思います。実際のところ何なのか不明瞭な「決まり文句」的表現のオンパレードといったものも多いですね。

特に、声に対する嗜好は、非常に根源的なもののようで、脳内にそれを心地よく感じる遺伝子の有無に依るとか??快い声でなければ、坊主なんとやら・・で、全ての見方が辛辣になりうるのかもしれませんね。逆に好みの場合は一体感が異常に強く(本能的に近いかも)なり、かの声(持ち主も含めて)に対する批判は、自分を傷つけられたような気がしかねない・・・(というのはまあ大げさかもしれませんけど)

ですから、特に半永久的に残る可能性が高い活字メディアに関しては、発信者側は、人間なんだから仕方がないなんてことは許されるべきではないのであって、自分の嗜好に流されぬよう、常に肝に銘じつつ、仕事をなさるべきだと思います。発信者の不用意なことばに傷つく受け手もまた彼や彼女に対価を支払って、彼らの生活を支えているのだということを自覚すべきです^^;「人間だから」というならば、少なくとも、受け手からの疑問、異議に対して常にオープンであるべきです。

音楽家への批評はありますが、批評の域を超えて悪口の様になっている論評って案外多いですよねぇ。
まだ歌唱や演技への直接的な批評は歌手のその時のコンディションもあるので不調の時はどうしても声に影響が出るものですが、オペラ歌手だけでなく俳優等にたいしても悪口を書いているのを目にした事があります。。。
こう言う有名人の悪口が書いてあるのを読むと、ねたんでいるのかなぁ・・・って感じにも思ってしまう事もあるんですよねぇ。。。
本に書くのなら誰が見ても気分を悪くしない様な書き方をして欲しいなぁ・・・って感じます。

訂正です。
私の投稿内、「遺伝子」→「細胞」です。好みは学習によって獲得されるというテレビ番組を見たことがあるのです。生まれつきという部分も皆無ではないと思いますけど・・・

我ながら、暇人というべきか、ネット中毒か?ですが、最近文庫本化されたという石戸谷結子音楽ジャーナリスト著「マエストロに乾杯」。彼女のインタビューを活字化したものです。軽薄な語り口(と感じる翻訳)が不愉快です。もう一点、疑問を感じたことがあります。「いいインタビューをするコツは、いい相手を選ぶこと」という一節です。巨大音楽マネージメント社の社長(アメリカ人)のアドバイスだそうです。別の本にあった「インタビューが実りあるものになるかどうかはインタビュアー次第」という言葉のほうが私にはしっくりきます。石戸谷さんの主張だと、主客が転倒しているのではないかしら?この一節、彼女の仕事に対する姿勢を象徴していると思います。(一例を挙げると、文庫化に際して、ペーター・ホフマンの近況を知らないと書いたということなどーー)この本があまりおもしろくなかったのは、ここに根本的な原因があるのではないかと思っています。

おお、またまた沢山の書き込み、ありがとうございますm(__)m

オペラの批評は、声が大きいとか良く響いていた・・のレベルで終わっちゃうことにも原因があると思います。
実演や映像では、半分はお芝居の要素もあるのですから、そっちの方をもっと追求していくことによって、活路も見出せるのでは?と考えていますが・・
実際には

>単なる感想にすぎないものが多いと思います

ですね^^;うーん。私も気をつけよう(^_^;)
(でもプロじゃないしねぇ^^;ご常連の方々許して!って感じですm(__)m)

>有名人の悪口が書いてあるのを読むと、ねたんでいるのかなぁ・・・って感じにも思ってしまう事もあるんですよねぇ。。。

そうそう。その要素は大きいですね(^_^;)
でもプロのモノガキさんが、それを表に出しちゃいけませんよね^^;

>石戸谷結子音楽ジャーナリスト著「マエストロに乾杯」。

これはお友達が日本から送ってくれたので、読みました(笑)
感想は『何読んだ?!』の9月分に載せてありますのでどうぞ~~

>この本があまりおもしろくなかったのは、ここに根本的な原因があるのではないかと思っています。

確かに。。彼女の仕事に対する姿勢(ミーハー根性丸出し←言いすぎ?!)が見え隠れしてますね^^;

声に対する嗜好の脳細胞(笑)ですが、言われてみれば・・ですね(^_^;)

>かの声(持ち主も含めて)に対する批判は、自分を傷つけられたような気がしかねない・・・

あ~~そうそう!異性に対しては、よりその傾向が強いのかもね(笑)

ヴァランシエンヌさん、
>本来、プロのモノガキさんが、個人的感情に左右されるべきではないというのが理想ですが・・現実には人間ですから、そうもいかないのが実情ですねーー;
そうですよね。それは私も理性では分かっているつもりです。
そもそも完全に客観的な音楽批評などないだろうとは思っていますし、こと声楽に関しては、食べ物の嗜好のようなもので、生理的なレベルで好みが分かれてしまうというのは自分でも実感しています。えうりでぃちぇさんのおっしゃるように、遺伝子レベルの問題なのでしょう。
ただ願わくば、評論家諸氏には、好きになれない演奏家に対してもせめて最低限の敬意を払ってほしいということなのです。それさえできていない批評が最近、目立つような気がしまして……。
どうも、嫌いな演奏家を一蹴するような書き方をする評論家は特に、自分の好きな演奏家については「彼or彼女の良さが分からないだなんて」といった言い回しを使うことが多いような気がします。両者は表裏一体、結局は評論家自身の姿勢の問題なのでしょうね。

私は、自分の好きな歌手が(あまり納得いかない理由で)批判されている記事を目にした時は、ビートたけし氏の「どんなスーパースターでも嫌いな奴はいる」という言葉を心の中でつぶやいてぐっと耐えています。でも今回の、ホフマンについての記述は、ファンが耐えて済むような問題ではないと思います。

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