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わたしのトリスタンとイゾルデ

もうすぐ新国立劇場での「トリスタンとイゾルデ」が始まりますね。(12月25日~1月10日まで?でしたっけ?)

チケットは既に完売…ええ、私は行かないんですけど^^;

「そういえば、昔こんなことを書いたわね」というのを思い出したので、こちらに載せておきます。全くアカデミックではなく、この作品について、思うことをつらつら書いたものです。

6年以上前のHP時代に書いたものなので、今よりも文章がこなれてないのは、許して下さい^^;

以下、こちらからの転記です。(多少訂正しました)

<楽劇『トリスタンとイゾルデ』概要>

この作品が、中世アーサー王伝説や、岩波文庫から出ている『トリスタン・イズー伝説』にヒントを得て作られていることは、多くの方が書物や個人サイトできちんと解説なさっています。
しかし、ここではあくまでも、この作品のリブレットと音楽から受けた印象のみでの、私の見解を書いています。
あらかじめお断りしておきますが、私は楽譜も読めませんし、ワーグナーのライトモティーフについても、『どれがどのモティーフか?』ということは、全くといっていいほどわかっていません(^_^;)何度も聴いているうちに、何となくぼやぁ~~~っと『アレかな?』というのが一つ二つあるかしら?という程度です。
でも、それだけでも考える要素というのは、この作品には色々とあるのです(^_^;)


<トリスタンの真意>

トリスタンという男性が、イマイチ掴みきれなくって、私にとっての一番身近な男性である、ウチの旦那様に下のような質問をしたことがあります(^_^;)

「イゾルデが彼を好きなのは、言動に現れている。しかもかなり強気。
けどトリスタンは、本当に彼女を好きだったのかどうかは、すぐにはわかんないじゃないの?もしかしてイゾルデに強要されただけじゃないのぉ~~?」
(←失礼ながら、映像では、どう見てもトリスタンが惚れるような女には見えない場合が多々あるしーー;)

という私の問いに彼はこう答えました。

「イゾルデが最初に『自分の所に来い』と言った時に、彼はすぐに行かなかったことが、何よりも彼女を愛している証拠だ」と。

彼の見解では、好きではない女ならば、その時にさっさと行くはずだ・・そうです。
大事に思っている女だからこそ、側に行かなかった(行けなかった)と、彼は思っているそうです。

うーん。男のひとってよくわかんないなぁ(^o^ゞ
女だったら、自分を愛してくれる男には、今すぐにでも来て欲しいと思いますよね(笑)・・やっぱり、わかんない・・トリスタンって男(^_^;)


<トリスタンは『死』に取り付かれた男>

ワーグナーの悲劇的ヒーローのもう一人、ジークムントとの心理状況を比較してみると面白いかと思います。
(他にも、いい結末で最期を迎えないヒーロー達がいますけど、やっぱり『トリスタン』と『ジークムント』が『悲劇のヒーローの双璧』だと思います)

この二人の決定的な違いは『生き続けたい』のか、『死にたい』のかだと思います。
【ジークムントは生きていく為に、ジークリンデを得たいと思った】
【トリスタンは死んでいく為に、イゾルデを選んだ】

トリスタンは、オペラの最初から最後まで常に『死』にたがってて、媚薬を飲んだ後にも、その思いから解放されたわけではなく、『死』にゆくとっかかりができたに過ぎないと思います。彼は死ぬことでしか、解放されないんですよね。

媚薬を飲んだからと言って、そこでイゾルデを『得る』わけではありませんし、ジークムントがジークリンデを得た時のような『歓喜』ではないんですよね~~

愛を語っていても、その先の死のことだけをひたすら考えている・・けれどイゾルデに対する思いやりが欠けているというわけではないんですよ。イゾルデへの激しい思いを死という形でしか、彼は昇華しきれなかったのではないかしら?

そういう意味で、トリスタンにとって、本心からの歓喜というのは、有り得ないのでは?と思います。


<真実の感情も優雅な上品さも、全ては声の中に存在しなければならない>

この二人のヒーローのもう一つの違いは、『身分』でしょう。トリスタンはジークムントとは違い、高貴な身分(血筋の上ではジークムントも、神の息子という『高貴』な身分ですが、オペラの中での扱いはあくまでも『神と区別された人間』であり、庶民なのだと思います)であり、喜びの表現の仕方も同じではいけないのかも・・と思い至りました。

高貴な人間は、感情を説明的に表さないほうが、より崇高に見える・・とでも言ったらいいのかしら?
こういう表現、求めるのは実際には難しいですネ^^;

私の理想的なトリスタンは、ちょっと無愛想(注:決して無表情という意味ではありません(^_^;))な中に貴族的な雰囲気を併せ持ち、ひたすら死へ突き進むような感じ・・でも激した部分は、三幕まで見せないでいて欲しい・・

先日亡くなったペーター・ホフマンが、この役に対しての解釈を、自伝の中で語っていた『真実の感情も優雅な上品さも、全ては声の中に存在しなければならない』という言葉は、本当にその通りだと思います。


<イゾルデは、業の強い女だけど・・>

対してイゾルデの方は、一幕では『怒り』二幕では『喜び』三幕では『悲しみ』を表現するわけですが、この感情の変化も、やりすぎると蓮っ葉な感じになると思うのです。

イゾルデは、業の強い女性ですが、猛女ではないはず。そこはかとない『たおやかさ』が欲しいわけです(*^^*)

こういう変化をやりすぎず、上手く表現できる女性歌手で観たい、聴きたいな・・と思ってます。


<オペラ版『失楽園』?!>

特別難しいことを主張しているわけではないのですけど(^_^;)単純にこの作品を『不倫もの』とか、二人の愛の場面だけを見てるのは、表層的な見方じゃないかしら?という気がします。上記に挙げた理由から、愛の要素よりも、死や破滅の要素が強いように感じています。


<この作品と関連のある書物、映画>
(緑字は映画です)
 トリスタンとイゾルデ(音楽之友社) オペラ対訳ライブラリー 高辻 知義訳
トリスタン・イズー物語(岩波文庫) ベディエ編 佐藤 輝夫訳
トリスタン(岩波文庫) トオマス・マン短篇集より 実吉 捷郎訳
ルートヴィヒ 神々の黄昏 ルキノ・ヴィスコンティ監督

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コメント

えええええっ!?またも(私にとって)衝撃の内容が。
> 好きではない女ならば、その時にさっさと行くはずだ・・
> 大事に思っている女だからこそ、側に行かなかった(行けなかった)
一応戸籍上は女である私も全くこの通りだと思いますし、しかもこういう行動をします、自分自身が。どうでもいい相手ならご機嫌取りでもなんでもすぐにして差し上げますが、大切な人なら無責任なことは出来ないと思ってしまいます。結果「好き避け」「大抵の人には愛想いいのに、肝心の相手にとっては感じ悪い人」一丁上がりです。・・・・呼ばれてもいない自分語り失礼しました。

starboardさん:

我が家は自分語り、ウェルカムですからどうぞご遠慮なく

>どうでもいい相手ならご機嫌取りでもなんでもすぐにして差し上げます

ははは(笑)
私はコレが出来ないタチなんです。どうでもいい相手どころか、大切な人にさえ、自分が怒っている時には、思いっきりぶーたれますから(笑)

あと…まあなんというんでしょう。
女性が男性に対して「来て欲しい」「会って欲しい」と言う時には、何らかの覚悟を決めていると思うのですね。

(どういう覚悟なのかは、まあその時々によって色々でしょうけど。この場合のイゾルデは恐らく、(愛している)トリスタンではなく(好きでもない、自分よりもうんと年配の)マルケに嫁ぐぐらいなら、トリスタンと一緒に、この場で死んだ方がましだと思っているんだと解釈してますが…)

そのぐらい強い思いで「来て欲しい」と願った相手には、私はやっぱり、傍にいる時には建前なんてどうでもいいからすぐ来て欲しいです。
(相手が自分の思いの深さに気圧されて、怖気づいていたとしても(笑))

…こういうのは、理屈で説明するのが難しいですねf(^^;

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